一切法は空の相:#
「一切法」とも「万法」とも言われます。現代の言葉では存在やすべての現象などと呼ばれます。ここでは五蘊の法を指し、それ以降の六根、六識、十二因縁、四諦なども含まれます。
「空の相」とは、すべての法が空である様子を指すか、真空の実体の様子を指すこともあります。因縁によって生じる法は、自己性を持たず、すなわち空の様子です。『大智度論』巻六には、「因縁によって生じる法は、空の様子とも言い、仮名とも言い、中道とも言う」とあります。ここでは色、受、想、行、識の五蘊などの法は、縁起性空の一種の現象であり、その実体が空の様子であるため、一切法は空の相であると言えます。
生じず滅ず#
これはすべての事物の空の状態について説いています。その状態とは何でしょうか?すなわち、生じず、滅ず、垢がつかず、清らかでなく、増えず、減らない状態です。
なぜ生じず、滅ず、垢がつかず、清らかでなく、増えず、減らないのでしょうか?それは空性の中には生じ、滅ず、垢がつく、清らかになる、増える、減るというものが存在しないからです。一旦私たちがこのような空性を体験すると、心の中にも生じ、滅ず、垢がつく、清らかになる、増える、減るといった区別が存在しなくなり、自然に妄想や執着のない心境に達することができます。
世の中のすべての事物や現象は、実相の理体が真に変わらず、特別な努力によって生じることもなく、破壊されて滅びることもありません。般若が照らされた後に生じるとも言えません(本来生じないものです)。また、般若が照らされる前に滅びるということもありません(本来滅びないものです)。ですから、生じず滅ずと言います。
実相の理体は本来空で静かであり、汚れをつけることはできませんし、治療して清らかにすることもありません。また、悪い因縁によって汚れに染まることもなく、善い因縁によって熏習されて清らかになることもありません。本来、清らかでも汚れでもないのですから、不垢不净と言います。実相の理体は本来完全であり、増やすこともできず、減らすこともできません。ですから、不増不减と言います。